資料2

講演記録(東京都難聴児親の会 橋倉さん)
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(1)講演記録紹介、関連する内容
(2)講演記録

■講演記録紹介、関連する内容

資料「聞こえない子を育てた親からのメッセージ  若いお母さん方に伝えたいこと−」

稲城市聴覚障害児をもつ親の会・代表  
橋倉あや子

 これは平成18年3月9日 大塚ろう学校で行われた「聴覚障害のある子の支援講座」での講演記録です。
 橋倉さんは、新生児聴覚スクリーニング検査の導入について、保護者の立場から積極的に発言されています。
橋倉さんのお子さんの聴力損失は65デシベルですので、周囲からは「聞こえている人」と思われるほど聞こえています。但し、静かな家の中では、です。
 幼稚園や保育園という、たくさんの音が混在する環境とは全く異なり、そこからさまざまな問題が起こってくることも確かです。「集団の中で、豊かな音環境に入れて」と簡単には言えない状況がたくさんあるでしょう。一対一の静かな部屋で向き合うことの多いSTとして、ST室以外の場所にいるお子さんの姿に思いを寄せる態度はとても大切だと思います。
 また、インテグレーションを目標に「がんばって」育ててきたことへの反省と、今後お子さんを育てるお母さんたちへのメッセージも、とても貴重なところだと思います。
 なお、大塚ろう学校のホームページでは大変充実した情報が得られます。
 
大塚ろう学校HP    http://www.rougakkou.com/

● http://rougakkou.com/kikoe/kikoeindex.html 
同学校内に置かれている「きこえとことば」相談支援センターのホームページです。幼児期のお子さんについては、こちらの情報が役立つと思います。
● http://rougakkou.com/kikoe/scr/scr21.html
パンフレット「赤ちゃんのきこえの検査  リファー(再検査)になったお子さんと家族の方へ」の内容がここで紹介されています。同じものは印刷されたパンフレットも購入可能です。  
● http://www.rougakkou.com/dataroom/dataroom03.html
には 当事者(本人、保護者)の講演記録が収められています。

(以上 文責  中川信子)

■講演記録

平成18年3月9日(木) 
聴覚障害ある子の支援講座

「聞こえない子を育てた親からのメッセージ
  −若いお母さん方に伝えたいこと−」

稲城市聴覚障害児をもつ親の会・代表   橋倉あや子

<はじめに>
 ご紹介いただいた橋倉です。本日はこのような場にお招きいただき、ありがとうございます。ここ大塚ろう学校にはボランティアスタッフとしてときどきお邪魔しておりますし、また個人的にも存じ上げているお母さん方がいらっしゃいますので、こうした場からお話しするのはなんだか恥ずかしく、あまり上手にお話できないかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。今日は、聞こえない子を育てた親からのメッセージの第2回で、「若いお母さん方にお伝えしたいこと」というテーマをいただいています。以前私は、平成15年の12月にOろう学校の幼稚部の親御さん向けに「聞こえにくい息子を育てて」というテーマでお話させていただいたことがあります。そのときの話しと若干重なってしまうかもしれませんが、どうぞご了承ください。

 今日は私の子育ての話を中心にお話したいと思いますが、私は聴覚障害の子どもを育てながら、親の会の活動をずっと続けてきました。最初は幼児期に指導をうけていたT大学病院の親の会で、子供たちの合宿行事などを3歳から高校生になるまで行ってきました。その後、難聴児を持つ親の会で、今度は親向けの勉強会などを企画する仕事をお手伝いさせていただきました。その間に、東京の多摩地域にある地元稲城市に親の会を立ち上げ、現在そこの代表を務めさせていただいております。長年、多くの聴覚障害の子どもたちとその親たちを見てまいりまして、いろいろな相談も受けたりするようになり、自分の子どもの個別な状況だけではなく、少しは一般性のあることも学ばせていただいたかなと思っています。今日、私が皆様にお話する内容からもなにかしら、それぞれのお子さんに当てはまることがあるといいなと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。

<「きこえない」のではなく、「きこえにくい」子どもとは?>
 私の子どもは、もう19歳の大学生になる男の子です。4歳上に姉がいて、2人兄弟の下の子として生まれました。息子は、右耳の聴力が65デシベル、左耳は110デシベル、右耳のみに補聴器をつけています。非常によく聴覚活用ができて、電話を使って話したり、音楽をある程度聴くこともできます。1対1での会話ではほとんど困らない状態で、きこえないのではなく、きこえにくい状態の子どもです。しかし、そのきこえにくさがなかなか親にも周りの人にも理解されにくいということがあります。補聴器の特性として、周りの音をすべて大きくしてしまう、ききたい人の声だけではなく雑音も拾ってしまうという性質があります。静かな家庭のなかでのやりとりと騒音だらけの学校でのきこえ方などは、全然違います。また、聴覚がよく使えている子は、高度難聴の子のように口形を読み取るなどの目を使うこともあまり習得せず、それだけ回りの騒音などの影響も受けやすく、その場その場の環境の変化に左右されやすいと言えます。
 以前、私達が家族で食事に行ったときの話です。お好み焼き屋に行き、自分達のテーブルでジュウジュウと焼いて、家族団欒をしながら楽しく食事ができたと親は思い、その店を出たときのことです。お腹がすいていたのか、黙々とよく食べていたなと思っていた息子が、一言。「あー、ジュウジュウうるさかった。皆が何を話しているのか全然きこえなかったよ」。補聴器を使っていない私達きこえる人間には、うるさいということはわかっていても、言葉が全然きき取れないほどとは思いもしなかったのです。家族で楽しく食事をしたと思っていたのは、きこえる親ときこえる兄弟だけ。その会話のなかに入れなかった息子のことを、親なのに気づかなかった。そうしたことがたくさんあります。先日も家族の誕生日を祝って、あるイタリアン・レストランに行ったのですが、6、7人の女性のグループがそばのテーブルでにぎやかに話していました。そうするともう家族4人の会話が息子には聞きとれないのです。聴力65デシベル、単音の語音明瞭度が88%という聴覚障害児としては本当によく聞こえている息子ですが、日常生活の中でことばをきちんと聞き取り、複数人数での会話を楽しむということはできないというのが現状です。補聴器の理想的な環境、静かな場所で1対1でゆっくりとはっきりと近くから話す、こういう環境は日常の中、特に集団生活の場ではあまりないということです。
 きこえる人間が、きこえにくい子の聞こえの状態を想像することはなかなか難しいものです。このことは、家庭生活だけではなく、学校生活、社会生活、どこにいっても付きまとい、よくおしゃべりできるのにどうしてちゃんと聞こえないのだと周りの人に誤解されやすい。まったくきこえない子よりもきこえにくい子のほうが理解されにくく、本人の大変さも伝わりにくいのではないでしょうか。そのことから、いろいろな問題が派生してくるのだと思います。
 またそうしたきこえにくさとは別に、不快な音に対しての感じ方も、私たちきこえる人間とは違い、息子は、幼児期には、地下鉄の丸の内線の音が大嫌いで、恐怖を感じて泣いてしまうほどでした。ある成人の難聴の方のお話で、その方は食器の触れ合う音が嫌いで、ご夫婦での家事の分担では皿洗いだけは勘弁してもらうということをきき、きこえる人間の感じる不快感とは、きっと桁がちがうのだろうなと改めて思いました。そうしたことを本人が言葉で説明できるようになるまで、子どもは年数がかかりますので、幼児期はずいぶんいろいろな思いをしながら、集団生活を送ってきたのだろうと思います。家族であっても、我が子のきこえにくさを把握することはむずかしいのに、まして学校の先生や子ども達が聞こえないのではなくあいまいにしか聞こえない、音としては聞こえているのにことばとしてはききとれないという状況を理解するのはさらに難しいだろうと思います。人工内耳のお子さんがだんだん増えてきて、その子たちが地域の小学校に就学する場合、やはり息子のような中等度の子が抱える問題と同じようなむずかしさにぶつかるのではないかと気になっています。

<子育ての過程のなかで・・・>
 息子は、東京のN医療センターで1986年(昭和61年)に生まれました。もうずいぶん前ですね。息子と同じ歳くらいの親御さんもそろそろ出てくるのではないでしょうか。産まれたときに口唇口蓋裂という唇や上あごに形成不全があったので、他にはなにか異常がないか、病院でいろいろ検査を受けました。その検査の中で聴覚に反応がないということで発見されました。2、3ヶ月おきにABRの検査を続け、やっと生後7ヶ月で聴覚障害の確定診断が出ました。その診断を受けたときに、私が先生に聞いたことは、「この子はどう育っていくのか?手話で子育てをするのか?」「教育はどうなるのか?」ということでした。どのような教育を受けるのかは、私にとって大きな関心事だったのです。耳鼻科医からは、「手話でなくても育てられる」「親が頑張ればろう学校に行かないですむ」「今は大学にまで進む難聴の子がいる」ということを言われました。親が頑張って教育をすれば、聴覚障害があっても普通小学校に入れ、勉強をしっかりさせて大学に進学できるような子どもに育てられる、そうすることが我が子の幸せにつながる、そしてそういう道を歩むことで、私たち家族は「障害」というものと離れられると思ったのです。
 本当に恥ずかしいことですが、私は母親として息子の障害というものが、なかなか受け容れられませんでした。息子の生まれた年に、ちょうど伊豆大島の三原山の大噴火があり、テレビで盛んに溶岩流が流れ出す有様を映していました。口蓋裂の赤ちゃんにミルクを飲ませるのはとても時間がかかって大変なのですが、ミルクを飲ませながらテレビ画面を見て、「あー、このまま私の住むこの町も何もかも焼き尽くされてしまえばいい」と思ったことがあります。障害のある子を産んだという事実があまりにも重くて、さらに自分が障害児の母となったということにどうしてもなじめず、そこから立ち上がることがなかなかできなかったのです。当時、私は上の娘を保育園に預け、フルタイムで働いていました。息子も産休をとって出産したのですが、口唇口蓋裂の手術を控え、さらに聴覚障害があるなら早期からの療育が必要、とても働きながらの育児はできないと退職しました。息子の出産による「障害」との出会いは、今流行のことばで言えば、まさに私にとって「想定外」の出来事でした。15年間働いてきて、キャリアや人脈もある程度築いてきたのに、突然家庭に入るということにある種の敗北感もありました。そういう私にとって、教育次第で普通の子と同じようになるということは、大きな可能性の道が開かれたと感じられました。

 確定診断後、T病院の講座に通い、聴覚障害についてT先生からいろいろ教えていただきました。そして、T先生からホームトレーニングのときに、一人一人にあるお母さんの育児記録の本が渡されました。「まさやと歩いた遠い道」という本です。聴覚障害児を育ててインテグレーションさせたお母さんの記録で、まさに血と汗と涙で書かれたような本でした。全身全霊をかけて我が子にことばを獲得させる努力の毎日が克明な記録として記されていました。T先生は「ここまでは普通のお母さんはなかなかできないだろうが、こういうお母さんもいるということで参考にしてほしい」と言われました。私も一読して、とてもこんなことはできないと思いました。仕事よりハードだと思いました。普通の育児でも事務職などよりはハードで本当に大変だったので、私には無理だと思いましたが、でもその本のなかの一つでも二つでも取り入れようと思い、この年齢ではこんなことをしたのか、こういう絵本を選んだのか、こうして工夫してことばを教えたのかと、折に触れ引っ張り出して読み返していました。お子さんへの愛情もきめ細かく粘り強く言語指導をされていて、いったいどんな方なのだろう、お子さんはどう成長されたのだろう、いつか会ってみたいと思っていました。
 あるとき、T病院親の会で誰か先輩のお母さんを呼んでお話を聞こうということになり、私がその本を書かれたお母さんの話しをぜひ聞きたいと提案すると、「あのお母さんは、今は手話の方にいったから、親の会で呼ぶのはまずい」と言われました。お子さんはどうしているのかと聞くと、「東京の大学に進学したが、補聴器ははずして、声を出さなくなったらしい」と教えられました。息子が4、5歳のときでしたので、まだまだその本は私にとってバイブルのような本でしたので、びっくりしました。「それはどういうこと?」「手話の方にいったというのは、どういう意味?」「手話やろうっていったいどういうものなの?」周りの人に聞いても、「いろいろ複雑なことがあり、簡単に説明できない。だんだんに分かってくるから」と何も教えてもらえませんでした。聴覚障害の子どもが成長して「補聴器をはずしてしまう」「話せるのに声を止めてしまう」、どうしてそんなことになるのだろう、私が知らない世界がある、普通にしていたら見えない世界があるのだなと思いました。それまで、聞こえない大人の人に会ったこともなければ、手話がどういうものかも何も知らなかった。本当にそういう時代でした。

 やはりその頃の親の会夏季合宿で、ある先輩のお母さんから「この子たちは、私たち聞こえる親とは違う聞こえない大人になるのだからね。けっして聞こえる大人にはならないのだから」と言われました。全く当たり前のことなのですが、私の中には具体的な聞こえない大人のイメージはなかったのです。一生懸命頑張って、聞こえる子どもたちの学校に入れ、大学まで進める言語力、学力を育てるという、聞こえる自分たち親の生き方に添ったイメージしか持っていなかったのです。そうした子育ての中で、息子がどのような思いをしてインテグレートしてきたかをお話します。

 
<インテグレート環境での聴覚障害児>
 私たち親子は、3歳から小学校入学までT病院の耳鼻科言語訓練室で週2回の言語指導を受けたのですが、当時の指導は聴覚口話法で、息子の場合はきこえがいいということでキュードも指文字も使わず、音声語のみでのやり取りでした。口形をはっきりさせ、子どもによく見せて明瞭に話す。少しオーバーぎみに表情や動作をつけ、子どもに注目させる。子どもの興味をひく題材を探し、何度も繰り返し楽しく遊ぶ、絵日記や再現遊び、ごっこ遊びを家庭で工夫し、たっぷりと言葉かけをしていく。そういう日々を送るようになりました。そして毎日毎日の記録をとり、それを読んだ担当先生から語りかけの工夫や子どもの見かたなど詳しく丁寧に赤字で添削され、指導を受けました。生活の場がすべて言語訓練の場となり、このことを覚えてもらうためにどのような生活をして、どのような場面を設定してと、いつもいつも考えていました。理解語がいくつ増えたか、どのような発語があったか、子どもとの生活のなかでアンテナをはりめぐらし、ことば、ことばで夢中な日々だったと思います。文字も早めに覚えるように工夫し、4歳過ぎには読めるようになり、5歳前にひらがなも書けるようになりました。日記指導を5歳くらいから始めて、並行して子供向けの親の日記を私が書き、それを使って読み取りの力も育てていきました。図書館に通うのが日課になり、絵本はまさに「山のように」読み、そして息子は、本が大好きな子に育ちました。
 T病院で言語指導を受けて、就学までにしっかりとした言語力を育て、地域の小学校にインテグレーションをしていく、そのために親子で頑張るという一直線の日々でした。また小学校入学後にスムーズにきこえる集団に入れるようにさまざまな集団の行事やルールを身につけておき、勉強面のみではなく、あらゆる面で先取り教育をしていきました。幼稚園や保育園などの行事の理解の徹底も図り、前もっての練習により、きこえる子たちの集団にすでに知っていることとして安心して参加できるようにする、そのような考え方にそって、生活のすべてが息子を中心として回っていました。「インテグレーションをめざして」という本も親の会から出ていて、それに載っているさまざまな親子の工夫や取り組みを一所懸命参考にしました。

 T病院と平行して週3日は保育園に通っていました。保育園は幼稚園より規模が小さく、20人弱のクラスに担任の先生が二人、障害がある息子がいるということで加配の先生が一人ついていました。大人の目が行き届いている方だったと思いますが、わからないこととまどうことはいろいろありました。一番困ったのが、保育園で歌われる歌でした。歌詞はまったく覚えられず、周りの子たちはとても楽しそうに歌っている。それからお昼寝のときに先生が読み聞かせてくれる絵本の内容がわからない。子どもたちは、絵本を読んでもらうとそれに影響されて、すぐ日常の遊びにとりいれたりします。そうした遊びにわからなくて入れない。本当にあいまいなまま、わからないままで昼間過ごしているのだなと思いました。親は保育園からどんな歌を歌うのか教えてもらい、歌詞を家に張ったり、小さな歌の本をつくり園に持っていけるようにしたり、保育園で読み聞かせている本は家でも同じように読み聞かせして、できる限り他の子と同じような行動ができるように心を砕きました。しかし、子どもにとって一番大事な遊びの場面でのフォローは、なかなかできなかった。私は、先生にお願いして、日常の保育を見学させてもらったことがあります。年中さんの終わりか年長さんの初めだったと思います。ほんの数時間だったのですが、私はそのときに子ども集団のダイナミックさというものを突きつけられました。二グループに分かれて、相手のチームの子を捕まえて自分の陣地に連れてくる鬼ごっこのような遊びだったのですが、子どもたちは遊び始めるとどんどんその遊びのルールを変えていくのですね。もっと面白く、もっと自分たちにあったやり方にと、遊びを動かしていく。ちょこっと遊び、よしこうしようと相談して、また遊び始める、そしてより面白く、躍動的にしていく、本当に子どもは遊びの天才だと思いました。そしてその遊びの中で、こころと身体とことばをいっぱい育てているのだなと思い知らされました。そしてそこにいる聞こえにくい子である息子は、刻々変化していく遊びの面白さにはついていけず、表面的にそこにいるだけ、真の面白さを知らずに参加している、でも知らない大人からは、皆なと一緒に楽しそうに遊んでいると見えるのでしょう。これはもう親ではおぎなえないと思いました。インテしている子の遊びをどう支えるかというのは、私にとって大きな課題でした。のちに息子が小学校2年から5年生くらいまで、大学生のボランティアサークルにお願いして、近所の子ども達を集めて毎週土曜日一緒に遊んでもらったのですが、この活動も子どもだけの集団ではなく、それを統制する大人が入っていたということで本当の遊び集団ではなかったと思っています。それはそれで楽しい経験だったと思いますが、十分なものではなかったと思います。結局息子は、本とゲームの世界が一番になっていきました。

 保育園時代のエピソードを一つ紹介します。保育園の連絡帳に先生から、お友達との遊びで回りにあわせられず、自分のやりたい遊びでないと一人で抜けてしまう、協調性がないという指摘が書いてありました。どういうことだったのか、息子に聞くとお友達とアニメのキャラクターになって遊んでいたときだったそうなのですが、このように説明してくれました。

「僕は○○ちゃんと二人で遊んでいるとわかるのだけど、他の子が入って3人、4人になると、だれが何をやっているのか分からなくなるんだ。だから、他の子が入ると僕はぬけちゃうんだ。」

 息子はきこえにくさに敏感だったのでしょう、わけがわからなくても友達と一緒に身体を動かして騒いでいればそれで楽しいという子ではなかったようです。聞こえる集団のなかにいる大変さを息子は、きちんと私に伝えていたのですね。私もその大変さをある程度類推できていたのですが、それならろう学校があるじゃないという選択の見直しができる時代ではなかった。聴覚障害の発見のときに、ここがゴールだよと大きくふられた旗から目をそらすことはできなかったのです。
 保育園の先生には、息子からの話を伝え、誤解をとき、その後、私から息子の聴覚障害のことを子ども達に話す時間を作ってもらいました。そういう時の子ども達って、とても素直に聞いてくれるのですね。子ども達も「補聴器って大事な宝物なんだね」って、その年代なりに理解してくれました。インテをしていて、喜びだと感じられるのはそうした時間です。ほとんどの子どもたちが聴覚障害とその後何のかかわりもなく生きていくのでしょうが、一時息子とともに過ごす時間をもったことで、聞こえない子がいるんだ、補聴器をつけて一所懸命聞こうとしている子がいるんだと知ってもらえるきっかけとなったということは、私の喜びでした。その後のある日のお迎えのときに普段来ないお父さんが迎えにきている女の子がいました。その女の子は、お父さんに息子を紹介し、「この子はお耳が聞こえないから補聴器をつけているんだよ」と話しました。お父さんはなにげなく「そう、かわいそうにね」とつぶやかれたのですが、すぐに女の子が「かわいそうなんかじゃないよ。ねー」と息子に話しかけました。息子も「うん、そうだよ」と答え、そのお父さんも笑顔で「そうか、かわいそうじゃないのか」と笑顔になられ、私たち親子もとてもさわやかなすっきりした気持ちになりました。こうした小さなささやかな出会いに支えられて、インテグレーションを続けてこられたのかもしれません。

 小学校は上の子が通う地域の学校に入学を希望し、教育委員会でなんどかの検査や面談を受けました。そのときに私が教育委員会の人に言ったことは、「学習面では親ができるだけのサポートをしますので、大丈夫です」ということでした。当時、T病院で指導を受けていた親は、ほとんどそう思っていたのでしょうが、学習は親が責任をもってきちんと教え、学校では集団生活のルールを学んだり、子どもらしい活動を体験できればいいと考えていました。そうは言ったものの、私は普通小学校で息子がやっていけるのかどうかとても心配でした。特に保育園では加配の先生がついていましたので、30人以上のクラスで担任の先生は一人、十分目が届くとは思えませんでした。入学前に校長先生、教頭先生、養護の先生、そして新1年生を担任される先生たちに親子でお会いして、いろいろ必要な配慮をお願いしておきました。そして迎えた入学式の朝、親子三人で家を出てもうすぐ校門が見えるというところまで来たときに、息子は急に立ち止まり、後ずさりしながら「僕、小学生になる気持ちじゃないよ。赤ちゃんに戻りたくなっちゃった」とつぶやきました。親である私も大きな不安を抱えての就学だったのですが、本人はもっともっと不安だったのでしょう。体育館で行われた入学式では、補聴器を手で隠しながら入場してきました。入学式後に教室に集まり、同じクラスの子どもと付き添いの親が一同に会したときに、先生からこのクラスには耳が聞こえにくく補聴器をつけている子がいる、皆と一緒に勉強するのでよろしくねという紹介がありました。私からも簡単に聴覚障害の説明をさせてもらい、息子も緊張しながら皆なの前で挨拶をしました。そして、この入学式の朝、息子がつぶやいた「赤ちゃんに戻りたくなっちゃた」ということばは、後ほどお話ししますが、10年後、高校生となった息子の口からもう一度私が聞くこととなるのです。
 こうして不安と緊張のなかでスタートした小学生生活ですが、息子は教科書を読んで宿題をしたり、時間割をそろえたり、そうしたいわゆるお勉強的なことは好きで、保育園時代よりも生き生きしていました。ただ、何をやるのかよくわからなかった生活科の授業は嫌がっていました。私も生活科は何がその日の課題になるのかわからず、先取り勉強ができないので、フォローができなくてお手上げでした。1年生のうちは、先生もゆっくりはっきり1年生向けに話すので、息子の聴力だとそれほど聞きとれないということはなかったようです。しかし2年生の半ばくらいから、授業の進度は早くなり、また教室内での子ども同士のやりとりが活発になってきました。担任の先生からも、クラスの雑談がきき取れず、それを後から説明しても、みんなのそのときの楽しさが伝えられないで困っているという連絡がきていました。そんな頃の授業参観の日に起こったことがありました。だれかの冗談にクラス中が笑い転げるという場面で、息子は「なんで笑うんだ。僕はちっともおかしくない。何がおかしくてみんなが笑っているのか分からない。笑うな。」と言って、一番の仲良しの友達の椅子をけっ飛ばすという出来事がありました。仲良しの子に自分の苛立ち、くやしさをぶつけたのでしょう。その日の放課後、その子に会ったときに、思わず「ごめんね、うちの子が椅子を蹴ったりして」と謝ると、その子は「大丈夫だよ、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃないか」と応えてくれました。とても嬉しかったのを覚えています。

 だんだんに息子は自分だけがわからない、自分だけが聞こえないということを、強く意識するようになりました。特に広い校庭や体育館でのマイクの声などはきき取れず、運動会の練習などは強いストレスとなったようです。息子のなにかがまずくなっている、どう解決したらいいのだろうかと、私は思いつくままいろいろなことをやってみました。FM補聴器を試してみたり、補聴器を変えてみたり、日本で一番ハウリングしないイヤーモールドを作るという人の家を訪ね、息子の聴力にあったベントを開けたものを作ってもらったり、発音訓練のベルボトナル・メソッドの研修会に参加して勉強してみたり、今思えば、彷徨っていたような時期でした。なにかをしなければいけないのだろうが、親の私が何をしたらいいのか、わかりませんでした。でも、それを解決する青い鳥は、どこか他の場所にいるのではなかったのですね。自分のそば、目の前の息子、その子をしっかりと見つめていれば、きっとこじれてからまった糸をほどく糸口がみつかったのでしょうね。しかし私は、何かを見つければ解決できるのではないかと、ずっと外部にそれを求めていました。その当時、息子が私に訴えてきたことばがあります。「僕一人がきこえない子なんだよ。僕一人が補聴器をつけているんだよ。学校のみんな全員がわかっても僕一人がわからないときがあるんだよ。」と。この訴えをもっと全身で聞いてあげていたら、きっと別の選択ができたのかもしれません。しかし、「インテグレーションを選んだ以上、こうした状況は致し方ないこと、他のインテしている難聴の子もみな同じ思いをしているのだから」と、私は進路選択の見直しという考えは持てなかったのです。

 授業中の聞こえにくさと同様に、放課後の遊びの中でも取り残される体験もいろいろしていたようです。かくれんぼ遊びの時に片耳しか補聴器をつけていない息子は、左右の方向がわかりません。鬼になってもなかなか見つけ出せずに、他の子はつまらなくなり、鬼を残して他の遊びを始めてしまったことがありました。また、3,4年生のギャングエイジ、悪がき時代といわれる時期の子ども達が群れて遊ぶ集団には入れませんでした。子どもの発達の専門家にお聞きするとわかるのでしょうが、素人の私でもこの時期が人間形成にとても大事なのだろうと思います。大人の目の届かないところで、子どもたちはさまざまな遊び、いたずら、悪さを繰り返し、世の中を探っていきます。そして人の心の動き、行動の規範など本からは学べないこと、四角四面の学校教育からは学べないことをたくさん学びます。人間として生きていく基礎作り、人や社会と関わる能力を耕す時期だと思います。その時期に、聞こえる子たちの集団には入れず、息子は家でもっぱらコンピュータ・ゲームをして遊び、ゲームとおやつ目当てに子どもたちが遊びに来てくれました。しかし、ゲームをしながらの会話には入れず。きこえる子たちが駆使する音声言語の複雑さには太刀打ちできなくなりました。きこえる子ども達が微妙なイントネーションやアクセント、声の調子などにこめる心理的なニュアンスは息子にはわかりませんでした。
 <場の雰囲気を掴めない子、全体の気持ちに乗れない子、わがままな子、自己中心的な子、みんなより幼い子>という扱いになり、お世話される子という自分の立ち位置に本人は甘んじられず悔しい思いをしていたようです。そして勉強だけでは負けない、馬鹿にされたくないという強い思いや自負心が出てきて、きこえる集団は安心できる仲間集団ではなくなっていきました。そしてある種の人嫌いみたいになり、お友達をさけるようになっていきました。ずっとのちに息子も成長して、親子で難しい話もできるようになったときに、「小学4年生くらいですごく性格が変わったようにお母さんは感じたけど、あのころなにかあったの?」と聞くと、「まあ、あることがあったけど、お母さんにも誰にもそれは言えないよ。オレが墓場まで持っていくことだ」と答えました。息子の心のなかに親でも踏み込んではいけない世界があるのだなと思いました。

<聞こえない人から学ぶ>
 私たちは、ろう学校の体験は一切なしで地域の小学校を選び、その環境の中でいかにうまくやっていけるかを考えていました。私たちなりに考え、それが子どもの幸せにつながる、我が子の良いよき成長につながると考えていたのですが、本当にそうだったのでしょうか?インテグレーション環境の中で、本当に子どもの人間性は育つのでしょうか?よく親御さんたちは、ろう学校は生徒数が少なく、閉鎖的だから社会性が育たない、多くの子どもたちに早く接して将来社会に出たときに困らないようにしたいと言いますが、はたして子どもがたくさんいることだけで豊かな環境だと言えるのでしょうか? 集団生活のなかで育てたい協調性や調整能力、集団で何かに取り組み、努力の結果成し遂げる達成感など、聞こえない子がインテ環境のなかで身につけるには、一工夫も二工夫も必要なのだと思います。本当にインテグレーションをして、豊かな言語力を身につけ、大学教育まで受けられるように学力を育てることが、聞こえない子の幸せにつながるのかどうか、もっともっと考えるべきだったと思いますが、当時私たちの周りには、それに対する答えとなるものはありませんでした。その後、2001年に出版された「聾教育の脱構築」という本のなかで<インテグレーションのリアリティ>という中野聡子氏の書かれた文章や、2003年に出版された「たったひとりのクレオール」という上農正剛氏の書かれた本のなかで答えと思えるものが出てきました。また、それに先立って1999年に大杉豊氏が「統合教育が筆者の自己像形成に及ぼした影響―ろう者としてのポジティブ・セルフ獲得の機会剥奪」という論文を発表しているのですが、この論文を私が読むことができたころには、息子はすでに学校生活に適応しきれない困難に直面していました。中野さんも大杉さんも、聞こえない人で有名大学まで進まれたエリートと目された人です。大杉豊氏が書かれたことは、インテグレーションの成功例、聞こえない人のエリートと見られる人間の心の中の寂しさ、苦しさでした。中野聡子さんも大杉さんも何度も学校生活の夢を見たと書かれています。孤立し、一人ぼっちになっている自分、心細さで揺れ動く自分、仲間に入りたいのに入れない自分、周りの楽しそうな様子を見ているだけの自分・・・。息子もたくさんの夢を見ると言います。母親の入っていけない夢の世界で、あの子はどんな思いをしているのだろうと、こうした聞こえない先輩の書かれたものを読むたびに、親ではわからないことがたくさんある、そのわからなさに謙虚にならなければいけないと思わされます。

 全国難聴児を持つ親の会という団体があります。日本の聴覚障害児の親の会としては一番大きく公的にも認められている団体です。会の設立のころから、インテグレーションを目指し、ろう学校から地域の小・中学校へという運動をし、難聴学級設立に大きく貢献してきた会ですが、現在の会長の稲田利光氏が「すべてのきこえない子の戸籍はろう学校にある」ということを言っています。かつてろう学校は駄目だから、どんどん地域の学校へと活動してきた結果、子供たちはどうなったか、一握りの成功者と呼ばれる人たちの影で傷つき、打ちのめされ立ち上がれない子供たちがいる、親の思いだけでインテグレーションさせないでほしい。ろう学校はきこえない子にとって大事なところだ、いつでも戻れる場であってほしいという願いを込めて、このように言われているのだと思います。そして、かつては手話を否定し拒否してきた親たちも、成長した子ども達からの訴えを聞き、手話の大事さに気づくようになってきました。長い時間がかかってしまいましたが。何人ものお母さんが、成人した我が子から「聞こえない親の子に生まれたかった。手話で子育てをしてほしかった。」と言われ、血の滲むような苦労をして育てた我が子、懸命にことばを教えた我が子からの親否定に、足元ががらがらと崩れるような思いがしたと話しています。先ほどお話した「まさやと歩いた遠い道」を書かれたお母さんは、お子さんが中学生のころから「聞こえないことは聞こえない人から学ぼう」と多くのろう者と関わり、手話を学ばれ、「手話を否定することはろう者を否定することだ」という考えに自分自身で早くにたどり着かれた方でした。この方の講演採録だと思われるものがインターネットで読めますので、ご紹介しておきます。「全国ろう児を持つ親の会」というホームページの長編投稿集というところに「障害の受容」―我が子の場合― ろう児をもつ母親 Sさんの話として載っています。インターネットをしている方は、長文ですがぜひお読みになってください。

(休憩)

 さきほど、全国難聴児を持つ親の会の話をしましたが、ちょうどその親の会から出たばかりの本がありますので、ご紹介します。「聴覚障害児の理解のために 第29集 聴覚障害のある子どもを母語のない子にしないために」という本です。バイリンガルの研究をされている同志社大学の教授・井上智義先生が、全国難聴児を持つ親の会の研修会で講演された内容をまとめたものです。井上先生が研究されている内容は難しいものなのでしょうが、親向けに話してくださったのでわかりやすいと思います。母語と第一言語の違いとか、言語の機能はコミュニケーションの面とブランと思考をつかさどる面があるとか、音声言語の教育をどの時期に受けるべきか、などいろいろ興味のある話がでてくるのですが、私が一番なるほどと思ったことは、「学習(learning)より習得(acquisition)を」という項目でした。言語というものは、意図的に学習した知識は、コミュニケーション場面で役に立たない、自然になにげなく習得したものが実際の場面で役に立つという内容です。これは、まさに聴覚障害児の言語指導に大きく関わってくることだと思います。息子がまだ就学する前だったと思いますが、親の会の大先輩のお母さんをお呼びして講演していただきました。お子さんはもう30歳を過ぎる方で、大学院を出て研究職についているという優秀な方です。その方の子育て時代の話をされて、丁寧な緻密な言語指導をされた方なのですが、難聴児というのは一度ことばを覚えたと思っても、しばらくすると秋の枯葉がハラハラと落ちるようにこぼれ落ちてしまう。何度も何度も繰り返し教え続けねばならないという話をされました。なんと大変な教育なんだろうと思いました。そして事実、息子もそうで、親が教え込んだことは覚えたと思ってもしばらくすると忘れてしまうのですね。そのくせ、自分で勝手に覚えたことは忘れない、いったいどうしてなんだろうと思っていた私には、この井上先生のお話は、「あー、そうだったのか」ととても納得がいきました。今、聞こえる人が手話の勉強をするときにも、ナチュラル・アプローチという教授法が増えてきました。ネイティブのろう者の手話にたくさん接し、それにより手話を身につける方法だと思いますが、それもこうした研究を踏まえて行われているやり方なのかもしれません。400円でとても安い本ですし、木島先生のところで購入できると思いますので、ぜひどうぞ。

<本当に大事なものはなに?>
 幼児期の言語訓練で、私はことばの獲得というものにとてもとらわれ、理解語がどれくらい、表出語がどれくらいと、就学までに何千ものことばを獲得させねばと、一生懸命になっていました。きっと指導されていた先生は、そうした意図はなかったのでしょうが、ことばの力をしっかりつけることが地域の小学校に入学する資格となるという思いで一杯でした。また、ろう学校ではなく、地域の小学校に入学しないと学力面でとても不利になるという考えも持っていました。ことばの力をつけて、勉強を頑張り、普通高校、大学へ進学させることが、我が子の障害を軽減することになると思っていたのです。
 親としての最初の思いは、ただただ我が子の幸せを願い、そのためにどうしたらいいかを考えていたはずなのに、いつの間にかそれがインテグレーションあるのみになっていったように思います。言語の先生には、小学校の選択のときに、必ずろう学校も見学するようにと言われていました。夫婦で見学に行ったときに、幼稚部の子供達のなかにとても息子と似ている子がいて、お友達と手をつなぎながら楽しそうに走っていた姿を見たときに、ふっと本当にインテでいいの?我が子はろう学校でなくていいの?と頭をよぎったのですが、教科学習の内容を見学し、やはりこれではとてもろう学校で学ばせられないと思ったのも事実でした。
 子どもの現実をしっかり見ていれば、すでに保育園時代に息子はきこえる子たちのなかにいる大変さを表していたのです。しかし私はそうした問題は一つ一つ乗り越えていくべき途上のことで、この道をすすめば、必ず頑張った結果がついてくると思っていました。大人からすると、幼児期、小学校時代、中学・高校時代というのは、通過していく過程の段階だと思えるのですが、その只中にある子どもにとっては、そのときはそれしかない、それが世界のすべてなのだろうと思います。そして、その日々のなかで心が育っていくのです。幼児期に大切なものは、ことばや学習だけではなく、子どもの全体的な発達と人への信頼感、安心して過ごせる基地となりうる場や自分を認めてもらえる場や仲間の存在ではないのでしょうか。ずいぶん、息子には無理をさせてきてしまったなという思いが、今はしています。
 そして、教育の場の選択も、なにがなんでもインテグレーションという切羽詰ったものではなく、いつでもその選択を見直しできるような柔軟なものであるべきだったと思っています。子どもが成長していく道筋は一本道ではない、いつでもやり直しができるほうがいいですし、いろいろな進む道があり、いく筋にもわかれていたとしても最後は同じところにたどり着くのだと思います。我が子の自立という大きな目標は、どの道を選んだとして、同じだと思います。

 息子が小学6年生のとき、たまたまPTAの役目があり学校にいく用事がありました。体育の授業中で、2グループに分かれてキックベースをしていました。担任の先生は、別のグループについていたので、息子のいるグループは子どもたちだけで試合をしていました。用事の合間に時おり覗いていると、息子には打順が巡ってこないのです。あれ?もう一巡りしたのに、どうして息子は一度も打席に立たないのと見ているとその試合に全然参加していないのがわかってきました。その場にいるけれど、まるで透明人間になったように、誰も息子の存在を意識していません。そしてそのまま授業は終わってしまいました。今、思い出しても胸が苦しくなるような光景でした。のちに大人の難聴者の方々がよく訴えていることで、透明なガラスケース越しに周りを見ているようなとか、透明人間になったような、という表現があるのですが、私は親の立場でまさにそうした場面をみてしまいました。そこにいるのに、まるでそこに存在していないような扱われ方をする、そうした集団に居続ける辛さを、本当に大きな問題になるまで、親はなかなか気づかないようです。
 息子にとっては、本とコンピュータ・ゲームという逃げ場がありました。それさえしていれば他のことは忘れられる、その世界に没頭していれば幸せというものがあると、救われることがあります。好きなものがあるということは、大事だなと思います。多くの難聴の子供たちを見てきて、スポーツでも芸術でもどんなものでもいいから、大好きなものがある子は安定しています。また、その好きな世界を通じて人と関わることができます。ぜひお子さんの好きなものを育ててあげてください。

<思春期の混乱と苦闘 中学時代 社会性の欠如 孤立 いじめ>
 小学校の高学年、クラスの中で浮いてしまっている息子を突きつけられていましたので、中学進学をどうしようか、さまざまに悩みました。低学年の頃に仲がよかった子は私立中学受験で塾通いに忙しく、地元中学に進む意味もあまり感じられませんでした。結局、息子といろいろ見学した中で、他の市にある難聴学級設置の中学に入学することにしました。電車で40分くらいかかるところでしたが、親の目が届きにくい中学時代、難聴学級の先生にしっかり子どもの様子をみてもらいたいと思ったのです。そして、難聴学級という同じ障害をもつ生徒同士の中で、小学校時代に欠けてしまった社会性、人と交わることを少しでも補えたらと考えました。しかし、その中学での1年生のときに集団でのいじめのターゲットにされてしまったのです。社会性の欠如や自分からなかなか溶け込もうとしない態度からどんどん孤立していき、クラスのいたずらっ子たちの格好の標的になってしまったのです。またそのいたずらっ子たちを陰で操る生徒もいて、なかなかいじめがなくならず、1年の終わりには転校も考えました。学校側が大きく問題にしてくれ、なんとか真相を究明してくれ、陰に隠れていた生徒もあぶりだして、解決をしてくれました。いじめ自体はなくなったのですが、息子は精神的にずいぶん不安定になり、いろいろなサポートを受けながら、なんとか通学を続けることができました。中学時代は、難聴の我が子だけではなく、他の子もみなそれぞれ大変な時期、生徒同士のトラブル、先生とのトラブル、本当にいろいろあります。そして高校受験もあります。嵐のような中学時代をどう乗り越えるかは、聴覚障害の生徒にとってとても大きな問題だと思います。

<高校時代 不登校、そして受験>
 高校は、本人の希望であったキリスト教の大学附属の私立学校に入学しました。親は本当にホッとしました。中学時代、いじめがあり、卒業まで通い続けられるかどうか、また勉強がおろそかになっていたので、受験に耐えられるか、など心配していたのですが、なんとか希望の高校に合格し、そのまま行けば、大学にも入れるし、やれやれと思いました。なるべく親は手出し口出しをせず、学校側にお任せする形で、高校生活を送っていました。私はホッとして、たぶん息子から目が離れていたのだと思います。息子が何に悩み、苦しんでいたのか、あまり気づきませんでした。クラスでまた孤立しているらしいことはうすうす感じていましたが、もう高校生にもなれば、人は人、という雰囲気でいじめもあまりないので、部活は楽しそうに通っているので、クラスに友達がいなくてもなんとかやっていくだろうと思っていました。しかし、それは大人の考えだったのです。息子は、その頃、強烈に友達を欲し、仲間を求め、自分の存在意義を探し求めていたのです。皆が楽しそうに高校生活をエンジョイしている中で、友達を求める気持ちが強まると反比例するように孤立感が高まり、対人恐怖や抑うつ状態、手が汚れたりすることを極端に嫌がる強迫神経症のようになり、クラス内や登下校のときの小さなトラブルが重なり、高校2年の2学期から学校に行けなくなったのです。学校を休み始め、冬休みに入ったころ、息子が、自分が生まれ4歳まで育った町に行きたいと言い出しました。電車で40分くらいのところでしたので、二人でその町で食事でもしようと出かけました。息子は、かつて住んでいたマンションを訪ね、1年間通った保育園を外から眺め、自分の幼児期を懐かしんでいました。そして「もう一度赤ちゃんに戻り、生き直したいよ」と言いました。人生にもしもというのはないのでしょうが、私たち親子がもう一度生き直せたらどんな進路を選んだことでしょう。進路の選択には時代や社会の影響がありますから、行き直せたとしてももう一度同じ道を選んだかもしれませんね。

 私は、今までに知り合いの難聴児が何人か不登校になったので、相談にのったり、悩みを抱えている親同士を引き合わせたりしていました。ある程度、そうしたときの親の苦しみもわかっているつもりでしたが、いざ我が子が不登校になってみると、子どもが学校に行けないということで、こんなにも親が辛く、苦しくなるものだったのかと改めて思い知らされました。もちろん本人が一番苦しんでいるのですが、それをそばで見守る親の大変さを、私は全然わかっていなかったなとしみじみと思いました。暗い暗い出口の見えないトンネルにすっぽりと入ってしまったような思いで、息をするのも苦しいような日々でした。スクールカウンセラーの先生に会ったり、病院の心理カウンセラーや思春期外来を紹介され、親子で通ったりしました。そのときに心理の先生に言われたことが、「なんでも好きなことを目一杯させてあげてください。好きなことをすることで気持ちをほぐしていき、エネルギーをためていきますから」ということでした。息子は、休んでいる間、一切勉強をせず、ずっとコンピュータ・ゲームをしていました。そのときは、不安が強すぎて本も読めない感じでした。朝から晩までずっとゲームをしている息子を見て、大丈夫なのかなと心配しましたが、我が子を信じるしかないと思い、三度の食事の支度だけはして、なるべく私は普段どおりの生活をしていました。なんとか3年には進級できることとなり、クラス替えがあり担任も代わり、本人も転校などせずこの高校を卒業し、大学進学もしたいと言い出しました。新学期から登校し、卒業単位に必要な出席日数を確保するまでなんとか通い、3年の途中からは大学受験のための予備校にも通えるようになりました。

 その後、大学受験をして、一応希望していた大学に合格することができたのですが、それで解決したとは、思っていません。まだまだ人間関係には臆病で、気持ちが不安定になることもあり、これから社会にでるまでには、いくつもいくつも山があるだろうなと覚悟しています。子どもは突然変わるわけではなく、長い時間をかけてこうした心理状態に追い込まれたので、また長い時間をかけて、自分自身を作り上げていかねばならないのだろうなと思っています。聴覚障害者のなかに、息子のようにうつ状態になったり、心の病にかかる人が増えています。そうした聴覚障害者の心理的な問題についての本が出ています。「聴覚障害者の心理臨床」という村瀬嘉代子先生の本と、聴力障害者情報文化センターでまとめた「聴覚障害者の精神保健」という本です。もし機会がありましたら、読んでみてください。聴覚障害者の心の問題がとてもよくわかる本です。また、河崎佳子先生という聴覚障害者の心理カウンセリングにずっとかかわっていられる先生が、「きこえない子の心・ことば・家族」という本を去年出されました。こちらもとても読みやすい本で、いろいろな子供たちの様子、家族のあり方が書かれています。あわせてご紹介します。

<アイデンティティと自己肯定感をどう確立していくか?>
 息子にとって、高校時代はアイデンティティの確立のために、もがき苦しんだ時期だったのだと思います。自分が何者であるのかを模索するときに、欠かせないのが他者、自分以外、家族以外の人間との出会いだと思います。他者と出会うことで自分自身が際立つ、また憧れたり、ロールモデルとなるような人との出会いから、さらに自分自身を見つめ、深めていく、そこに他者の存在が必要なのだと思います。息子は、高校時代に強烈に他者を求めていたのに、出会えなかったのではないでしょうか。小学校、中学校でも孤立することがあったのに、渇望するように他者を求めていた高校時代は、孤立していることがより鮮明になり、その苦しさは精神のバランスを崩すほどだったのだと思います。

 芹沢俊介という評論家がいるのですが、彼は思春期に必要なのは、「隣る人」の存在だと言っています。自分の隣に座って、何もかも受け入れ、決して裏切らない、ともに考え、ともに悩んでくれる人の存在が、大人になっていくときにどうしても必要なのだと。息子もさぞかしそうした人の存在がほしかったことでしょう。自分自身をそのまま受け入れてくれる存在と出会うことで、アイデンティティが確立され、自分が認められることで自分はこれでいいのだという自己肯定感も育っていくのだと思います。残念ながら、インテグレートしている聴覚障害の子供たちは、きこえる生徒たちのなかでは、なかなかアイデンティティの確立は難しく、自己肯定感どころか反対にきこえない、わからない日常のなかで自己卑下、劣等感が強まってしまうようです。よくわからないままで回りに合わせて行動していたり、いつもみんなからワンテンポずれてしまったりします。集団での話し合いにも参加できず、結果だけを知らされ、意見発表のような自己表現の機会が少ない、このような状況では、自分に自信がもてない、自己評価が低くなりがちなのは当然とも言えます。自分はこれでいい、ありのままの自分でいいのだという自己肯定感は、仲間や友人、先輩との出会いの中で育まれるのではないでしょうか。そして自分より先を歩んでいるロールモデルの存在が、きこえる人間ではない自分の将来を考えるときに大きな励みになると思います。一人ぼっちの聴覚障害児をつくってはいけないと思います。

 そして自分と同じ聴覚障害の仲間達と出会うときに、手話はなくてはならないものとなります。そのことに親はもっと早く気づくべきだったと思いますが、私の子育てのころは、将来手話が必要となれば、高校生、大学生になってから手話を覚えればいいと言われていました。手話も言語ですので、言語獲得の最適期というものがあり、その時期を逃すと一つの言語を獲得するにはやはりそれなりの大変さがあるのだと思います。また、手話から遠ざけられて育った聴覚障害児の中には、手話は恥ずかしいもの、ろう者は劣った人たちという偏見からなかなか抜け出せない子ども達がいます。言語と言うものは、その言語を使う人たちやその文化や歴史を尊敬し、憧れ、自分も近づきたいと思う気持ちがなければ、なかなか身につきません。手話やろう者への偏見があるうちは、どんなに自分に必要なものだと言われても言語として獲得することは難しくなります。息子の聞こえない友達の中には、「きいろぐみ」という手話パフォーマンス集団に入って、どんどん手話を吸収していっている子もいれば、スケールアウトの何も聞こえない聴力なのに、外出先で母親が通訳のために手を動かすと「やめろ」と怒り出す子もいます。しかし、まだその子は小学校でろう学校に転校したので、手話を読み取り、ある程度自分でも表現できるようになっているのですが、ずっとインテでやってきた20歳過ぎのある青年は、120デシベルのほとんど聞こえない聴力でも手話が全然わからず、発音も家族でないと聞きとれず、目の前に手話通訳がいてもそれを利用することができません。持ち歩いているノートパソコンに文字を打つ込んでコミュニケーションをしていました。そして「ゲームソフトの開発の仕事をしたいという希望を持っているのだが、どんなゲームを作るのか、どのように開発していくのかなど、人とコミュニケーションをとらないとそうした仕事ができない」と困っていました。指文字だけでも覚えると、少しは楽にコミュニケーションをとれるのに、と彼を見ていて思ったものです。「自分はろう者だ」ときちんと思えるまでにまだまだ時間がかかり、そして彼をそう育てたのは、やはり私たち母親なのだと思いました。

 こうして振り返ってみると、私自身も幼児期、小学校時代を通じて、息子がきこえない大人、きこえにくい大人になるための手がかりを手渡していなかったのです。きこえる大人である私から見れば、きこえにくい我が子には、劣っているところ、欠けているところがたくさん見えました。あれもきこえていない、このことも知らない、あそこを補って、こっちを教えてと、そんなことばかりをしていたような気がします。私自身がきこえない成人の方々から学ぶことが少なかったのだと思います。きこえない世界のことはきこえない人に教えてもらうこと、そうした場をもっと早く息子に用意しておくべきだったと思います。思春期の混乱の中で、息子が私に突きつけてきたのは、「お母さん、僕はいつまでたっても聞こえる大人にはなれないよ。どんな大人になったらいいのかわからない、どのように大人になったらいいのかわからないよ」ということだったのではないでしょうか。中等度のきこえ方、ある程度できる口話の力に頼ってしまい、親も早くからの自覚が持てなかったのだと思います。息子が、自立した人間として歩んでいくためには、自分自身を認め、自分であることを愛おしく思えるようになること、そうしたアイデンティティを確立できることが大事で、まだまだ時間と人との出会いが必要だと思っています。今、大学の手話サークルに入って、少しずつ手話やろう者のことを学び始めています。

<心に残っている言葉から>
 19年間の子育ての中で、いろいろな方の言葉に出会いました。その中からいくつかをご紹介します。
多くは聞こえない大人の方から教えられた言葉です。皆さんもこれからいろいろな聞こえない方とお会
いすることがあるでしょう。有名な立派な人ばかりでなく、普通に暮らしている一般の方、あるいはあ
れ?この人はちょっと?と思われる方、少し危ない方、本当にいろいろな方がいますので、なるべくた
くさんの方に会っておくといいかと思います。聞こえる人間にもいろいろいるように聞こえない人にも
いろいろいる、当たり前のことですが、そうした体験の中で、我が子はどう成長していくのだろうかを、
考えていってほしいと思います。

「親は自信を持てば、子どもも自信を持ちます。親は自信を持ちなさい」米内山明宏氏の講演から
 米内山さんはデフファミリーの方で、手話で育ってこられた方です。ろう者劇団の演出やろう狂言、映画の監督などもやられている有名な方ですね。この言葉を聞いたときに、私は難しいと思いました。障害のある子を育てていて、いつもこれでいいのだろうかと試行錯誤をしながら子育てをしていましたので、そうした自分に親としての自信を持てと言われてもなかなか難しいなと思いました。でもこれは子どもが本当に自立していくときに大事なことだったのですね。親が毅然としている、自分が歩んできた道を信じ、揺るがないということは、子どもに大きな安心感を与えるのだと思います。そして、そうした大きな安定した親を乗り越えて、初めて子どもは自立へと歩き出せるのだろうなと思っています。これに関したことで、子どもが成人してから、親を否定し責めるときがあります。どうして自分だけが耳が聞こえないのか、どうしてインテさせた、なぜ手話から遠ざけた、と。そうしたときに「親は泣かないほしい」ということを、何人もの聞こえない人から言われました。泣かれるとそれ以降、そのことに触れられなくなる、子どもから責められても親は堂々としていてほしいと言われました。私はまだそういう経験がないのですが、泣かないで堂々としていることができるでしょうか、どうでしょうね。

「時には、子どもが親を批判したり、疑問を投げかけてくることもある。その時、自信をもって『親として責任を持って考え、育ててきたのだ』と説明してほしい。親の気持ち・信念があいまいだと子どもも揺らいでしまう。」大杉豊氏講演より
 これもまったく同じことを言っています。大杉さんご自身が、厳しい聴覚口話法で指導を受けインテグレーションしてきた方ですので、実際にお母さんを批判し、ずいぶんぶつかられたと聞きます。しかし、子どもの立場からしたら、どんなに激しくぶつかっても親が毅然としていてくれることがかえって救いなのですね。これから人工内耳のお子さんが成長されて、これと同じように「なぜ自分に人工内耳の手術をしたのか?ありのままの自分を受け入れられなかったのか?」と親を批判することがあるかもしれません。また反対に手話で育てられたお子さんが、「なぜ小さいときに人工内耳の手術をして、音声語をもっと話せるようにしてくれなかったのか?」と批判してくるかもしれません。そうしたときに、きちんと我が子の疑問に立ち向かい、「その時点で、親は懸命に考え、子どものためにこれがいいと思って、親の判断と責任のもとに決めて育ててきたのだ」と堂々としていられるでしょうか。親に与えられた大きな宿題だと思います。

 子どもの自立に関しては、「親は上手に捨てられなさい」という言葉も聞いたことがあります。今、小さなお子さんを育てていると、いつかこの子が自分を捨てていくなんて思えないでしょうが、子どもは親を捨て、親を否定し、親を乗り越えていくのですね。親がいつまでもまとわりついていては、子どもの自立を損ない、子どもにとっても親にとっても不幸なことなのだと思います。いかに上手に捨てられるか、とくに男の子の親御さんは覚悟しておかれるといいかと思います。

「理屈抜きに手話が本当に必要だということをそのまま受け止めてほしい。そして聞こえないことに対して誇りを持ってほしい」伊東靖雄氏講演より
 伊東先生は、まだお若い方ですが、ろう学校の先生になられた方です。Sろう学校にいられると思います。やはり小学校からインテグレーションをして、大学まで進まれ、それから手話を覚えられた方です。手話を覚えてからいかに自分が少ない情報量のなかにいたか、心から笑うことのなかったインテ環境のなかでいかに無駄な時間を過ごしてきたかがわかったと言います。そして就職先も決まっていたのにやめて、ろうの先輩たちから教えられたこと、聞こえないことに誇りをもつことなどを子ども達に教えたいと教員になられたそうです。伊東先生も聞こえないお子さんがいらっしゃるのですが、厳しく聴覚口話で子育てされ手話を使うことに反対していた伊東先生のお母さんがお孫さんも聞こえないということを知らされたときに、「どう育っていくか、楽しみだね」ということばを返してくれたそうです。お母さんがそのように思われるくらいに、伊東先生が聞こえない人として自立し、誇りを持って生きていられるのだなということがわかります。

「障害のある子の親は哲学を生きる」先輩のお母さんから
 これは、別々の方から2度ほど聞いたことばですので、どなたかの有名なことばなのかもしれません。
障害のある子を育てていると、本当にいろいろなことを考えます。生きるってなに?幸せってなに?
普通ってなに?そして障害をもって生きる意味はなに?など、初めて障害と相対したときだけでなく、折に触れ、節目節目に人間にとって根源的なことを問い直さねばなりません。私自身は「障害受容」とか「障害克服」という言い方は嫌いで、障害は受容するものでも克服するものでもない、ずっと自分のそばにたたずみ、一生をかけて自分に問いを発しつづけるものだと思っています。
考えるのが苦手な方もいるでしょう、ことばでうまく説明できない方もいるでしょう。どもどのような方でも、きっと哲学を生きているのだろうなと思うときがあります。どうぞ障害というものから目をそらさず、しっかり見つめて共に歩んでいってください。けして辛いことばかりではなく、真実にふれることのできる貴重な機会を与えてくれることと思います。

「勉強ができることで障害をはねかえすという考え方は、子どもの生き方を息苦しいものにするからやめたほうがいい」スクールカウンセラーの先生から
 これは、息子が不登校になったときのスクールカウンセラーの先生から私が言われたことです。その方は聴覚障害教育のことなどはなにもご存じなく、たまたま息子の高校で週1回、生徒や親の相談にのっていた方なのですが、何度かお話しするうちに本質的な問題をきちんとわかってくださいました。
そして、私自身の子育ての根本に、聴覚障害を勉強ができることではねかえすという面があることに気づかれ、そうアドバイスしてくださいました。親のそうした姿勢が息子を窮屈な思いにさせ、こうでなければならない自分とそうはなりきれない自分の間で引き裂かれ、苦しんでもいたのですね。我が子が幸せになってほしい、単純にそう思っていたころに戻ることが私にとっても必要でした。

<私からお母さん方へのお願い>
 最後に私からのお母さん方へのお願いをお伝えします。いくつもあるのですが、これは私があまりできなかったことばかりです。できなかった人間からのお願いなので心苦しいのですが、一応お伝えします。

父親を孤立させないで、上手な出番を作っておいてほしい
兄弟姉妹に、あなたも大事なかけがえのない愛しい子だということを言葉、態度、心でしっかり伝えておいてほしい。
幼児期は取り戻すことのできない貴重な親子の関係を紡ぐ時、子どもが「おかあさん」ということばに触れたときに、ポッと心が温かくなるような母親、大人になったときも甘酸っぱい思いにひたれるような母親になってほしい。
子どもの伸びていく力を信じる、そして、親自身も人生を楽しんで生きる
親子ともども人との出会いを大切にし、子どもにはさまざまな経験の場を用意しておく。
子どもは好きなことをやることでエネルギーをためていく。子どもの好きなことを大事に育てていってほしい。
手話であれ、日本語であれ、きちんと獲得するためにはたくさんのことばにふれなければならない。幼児期にそうした十分な豊かなことばにふれられるかどうかは、やはり保護者、とくに母親にかかっている。今しかできないことをおろそかにしないでほしい。小さな日常を大切に。

 以上です。自分ができなかったことなので、申し訳ないなと思いながらお話しました。

 私の話を終える前に、お手元にDVDとパンフレットがお配りしてあると思います。新宿御苑前にある聴力障害者情報文化センターというところで制作した手話紙芝居の見本DVDと情報文化センターがどういうことをしているかという紹介のパンフレットです。情報文化センターはテレビ番組に日本語字幕をつける仕事をしたり、字幕付きビデオやDVDの貸出を行っています。登録をするとFaxなどで貸出の申し込みができ、無料で字幕付きビデオなどを借りられます。お子さん向けのものもありますし、また昔話に手話語りをつけた「手話紙芝居」には字幕もついていますので、親御さんには手話の勉強にもなります。私は東京都の親の会を通じて情報文化センターと協力関係にありますので、今日、大塚で若いお母さん方にお話しするのだと言いましたら、ぜひ若い親御さんに情報文化センターを利用してほしいので配ってほしいと言われました。どうぞご活用ください。
 ではこれで私からのお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

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